■絵画の真実、真実の絵画005
しかし、絵画の真実が、具体的な対象を表さず、情緒的な感情や情念を象徴することもない、ただの単なる形態と色彩の組み合わせだけの絵画であり、悦楽的な、ただ存在するだけの、絵画なのだとすれば(音楽も同様だろう)、小説はどうなのだろうか。そう、小説もまた恐ろしくも虚偽・虚構の装置ではなかったか。だからこそ高橋源一郎は『さようなら、ギャングたち』『あ・だ・る・と』『日本文学盛衰史』と何作にも渡り、虚偽・虚構の装置にしか見えない作品を創り続けて来たのではなかったか。
小説もまた虚偽・虚構の装置から脱却する手立てとして、書かれた単語も文章も、具体的な対象を表さず、情緒的な感情や情念を象徴することもない、ただ書かれただけの、悦楽的な、ただ存在するだけの、もちろん文脈なども不在の文学を目指さなければならないだろう。それが文学の使命なのだ。絵画に限ったことではない。
そこには、いや、結論を急ぐのは控えよう(というか、既に結論は出てしまっているが)、これからは、一つずつ論じて行く必要があるだろう。
真実に向けて。
小説もまた虚偽・虚構の装置から脱却する手立てとして、書かれた単語も文章も、具体的な対象を表さず、情緒的な感情や情念を象徴することもない、ただ書かれただけの、悦楽的な、ただ存在するだけの、もちろん文脈なども不在の文学を目指さなければならないだろう。それが文学の使命なのだ。絵画に限ったことではない。
そこには、いや、結論を急ぐのは控えよう(というか、既に結論は出てしまっているが)、これからは、一つずつ論じて行く必要があるだろう。
真実に向けて。
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